高嶺の花の綾本さん【短編小説】

あらすじ

自他ともに認める「優等生」の綾本理衣子《あやもと りいこ》は、ある日学年主任から問題児の佐々《ささ》をしばらく監視してほしいと頼まれる。いやいやながらも理衣子は従うが、彼の観察をするうちに不思議な接点ができて――。



 文芸部の部室は北校舎の地下二階にある。そこは建築上の関係で渡り廊下を通らないとたどり着けない。その渡り廊下も職員室と校長室を両側に置いた場所に設置されてあるため、誰も進んで通りたがらない。難なく通れるとすれば、自分のような「ザ・優等生」だけだろう。 

 綾本理衣子《あやもと りいこ》は自分が教師に気に入られていることを知っている。学校の成績は勉学と体育実技ともに自信があるし、おまけに自分の顔が「上」であることも自覚している、生粋の「優等生」だ。男子たちの間では「高嶺の花」と噂されている現実も、本人をより愉快にさせた。  そんな調子の理衣子だから、まさか職員室の目の前を通った時に学年主任から声をかけられるとは思わなかった。厳しい教育指導で有名な学年主任が理衣子は嫌いではなかったが、なにぶん大人と子どもなので、理衣子はちょっと身構える。

 「何でしょうか、郡上《ぐんじょう》先生」 

 教師は郡上剛史《ぐんじょう つよし》といった。生徒からは「インテリ陰険眼鏡」と呼ばれている、ちょっと目つきの悪い男だ。だからといって性格が悪いわけではないのだが、教師と生徒はたいてい水と油である。 

「佐々鈴蘭《ささ すずらん》について聞きたいんだが」

  はて? と理衣子は首を傾げる。彼と仲良く話した記憶はない。

 「佐々君……ですか?」

 「ああ。綾本、同じクラスだろう」

  確かに、理衣子と彼は一年一組のクラスメイトである。

 「佐々君がどうかしたんですか」

 「その髪の色をいい加減もとに戻せと言ってやりたいところなんだが、あいにく俺は雑務が忙しい。おまけに一年一組の担任はあの優しい斉藤先生だ。聞けばお前たちのクラスは授業崩壊を起こしているそうじゃないか」

 「ああ……」 

 理衣子は少し面倒くさい気持ちで主任の言葉に反応した。担任教諭を務める斉藤高雄《さいとう たかお》は、温厚だが気弱で物怖じしてしまう二十代後半の男性で、見た目もひょろっと背が高く、あからさまな優男の外見ゆえに、特に男子生徒からなめられているのだ。

 「首謀者は佐々鈴蘭と聞いた」

 学年主任は声の調子を強めた。 

 理衣子はちょっと考える風に目線を外してみせた。 

「佐々君が何を考えているのか、私にはわかりません。斉藤先生の授業はおもしろいし、佐々君、学校の成績はすごくいいのに……。変な人ですよね」

 「生徒による先生いじめは言語道断だ。綾本、佐々が中心人物だとみて間違いないか?」 

 何か、スパイみたいね。 

 理衣子は胃のあたりが不快感で重たく感じながらも、「ええ」と笑顔を見せた。

 「佐々君が斉藤先生いじめの主犯格です。でも先生、私が話したとは言わないでくださいね」


 

  部室には女子生徒たちの誘いから逃れてきた理衣子の友人が、先に場所を陣取っていた。 

「私、郡上先生のコマ扱いになりそうだわ」 

 理衣子は深いため息を落とし、人気のない北校舎の、二人だけの昼の時間を邪魔されたことに苛立ちを示した。 

「大体、佐々君なんて赤の他人よ。それも男子。私の知ったことじゃないわよ」 

「私はちょっと興味あるけどな」 

 相手からの発言に、理衣子はきゅっと眉根を寄せる。 

「梗《きょう》、今あなたが弁当を広げている相手は、この学年三位の成績優秀者、私だということを忘れないでね」

「わかってるよ。興味があるって言っただけじゃんか。理衣子は嫉妬深いなー」 

「あなたが尻軽なのよ」 

「ひでぇ」 

 梗はぷっと吹き出す。実際、神崎梗《かんざき きょう》はよくモテる。そもそも目立つ。すらりとした体型に、線の細い面影、抜群の運動神経はまさに女子生徒にとっての「女の鏡」そのものだ。「今どきの女子高生は男に興味ないのかね」と梗がぼやく中で、彼女が「同性から好かれる自分」をより好きなのは理衣子も痛いほどわかっている。つまり神崎梗はちょっとしたナルシストなのだ。

「私も世界でいちばん自分が大好きだから、あなたの相手が務まるのかしらね」 

「それ、自分で言うか?」 

 梗が理衣子の弁当箱に箸を近づけたので、「あげないわよ」と牽制する。

「高校生にもなって授業崩壊とか馬鹿らしい。斉藤先生も意気地がないのよねー。教師に必要なのは絶対的な自信とものを教える側のオーラよ。大人が子どもにビビッてどうするのよ。この一件、佐々君よりも斉藤先生の方が情けない気がするわ」 

「おー、手厳しい」 

「それでさあ、梗」 

「ん?」 

 理衣子は上目遣いに相手を見つめた。

「私、郡上先生に告げ口したっていう展開になってしまったから、しばらくボディガードをしてくれない? 男子から何かされたくないもん」

「オーケー」 

 梗は理衣子の頭を軽くなでる。理衣子は彼女の手が好きなので、用がない時にもこうやって梗の手を待つことがある。 

 綾本理衣子と神崎梗は、「親友コンビ」だ。 

 この二人の仲を学年中で知らない者はいない。 



 斉藤高雄は決して悪い教師ではない。ただちょっと、時代遅れの熱血魂がうっとうしい方向へずれてしまったような、困った大人で、今どき教科書を丸め込んで教壇にバシバシ叩きつけ、 

「君たちは! この食糧危機と環境破壊のさなかに生まれた、人類最大の少子化世代であり! この困難な時代を生きなければならない究極のサバイバーで! 僕は何としても君たちの助けになるため勉学を教える身であり!」 

 などとのたまうものだから、教室の中はしれっとした空気に混じってこらえきれない笑いがどうしても絶えない。 

「だからこんな大事な時期にUNOをやってる場合じゃないんだよ! 佐々鈴蘭!」 

 斉藤は後ろの席で仲間たちとカードゲームに興じている天敵を、名指しで訴えた。 

「大体何でUNOなんだよ!? 馴染みないだろ! トランプの方がみんな知ってるだろうに!」 

「ごめん、先生。だいぶおもしろい」 

 佐々鈴蘭は意地悪そうな目つきをさらに細め、ケラケラしている。 

「今度はー、ボードゲームしようと思ってるんですよー」 

 佐々に反省の色は見えない。斉藤の反応をこれ見よがしにうかがい、ワクワクしたようなまなざしさえ浮かべ、冷笑を決める。 

 理衣子はじっと佐々の行動を観察していた。 

(彼は、冷たい人ね) 

 佐々に友だちは多い。フットワークは意外と軽く、誰かとしゃべることに苦心している様子は、今まで一度も見たことがない。特に暗い側面も見受けられない。 

 しかし、佐々鈴蘭は冷たいと思う。 

 冷たい、とは、冷酷の意味をいうのか、冷淡といえばいいのか、理衣子にはまだ判断できないけれど、彼の本質を当てようとするほど、寒々しいオーラが見える気がするのだ。 

(このまま授業が進まないのは嫌だな。私の優秀な成績に影響が出てしまう。さて、どうしたものかしら) 

 いまだ止まない斉藤と佐々鈴蘭のバトルを他人事のように見つめながら、理衣子は授業内容とまったく違うところで頭を抱えていた。 



  たいした進展もないまま、一日が過ぎた。つまりあっという間に放課後となった。 

 この際、先生に頼まれたことなど忘れてしまおうかと、理衣子は優等生らしからぬ邪念を働いていた。 

 帰り道を梗と並んで歩きながら、自分なりに頭を使って作戦を練る。何だか今日は考えてばかりだ。 

「あんまり思いつめるとよくないぞ。ジュース奢ってやる」 

 隣から冷えたペットボトルが贈られる。彼女が先ほど自販機で買ったやつだ。 

「梗のお金でしょ。もらえないよ」

「大丈夫だよ。ちゃんと甘えな」 

 梗は理衣子にジュースを手渡すと、背中をポンと優しく叩いた。見た目がいい上に気遣いまでできる彼女は、完璧なまでにイケメン女子そのものである。 

「何だか、あなたと仲良くできてる私って、すごく幸運ね。数多くのライバルに勝って神崎梗の親友ポジを手に入れられたこと、奇跡だと思う」 

「いやいや、私のこと買いかぶり過ぎだよ」 

 梗は照れたように笑い、ふいっと理衣子から顔を背けた。耳がどことなく赤くなっている。心から嬉しかったようだ。理衣子も知らず胸の底が温かくなる。 

 今日一日の憂うつが吹き飛んでしまうような、居心地のよさだった。 


   ** 


 観察二日目。さっそく佐々鈴蘭は次の先生いびりを発案したらしい。今度はクラス中を巻き込んで、教室の全座席を教壇から背を向ける形にした。つまり先生から見て、机を後ろに向けたのである。気まずい表情を浮かべるクラスメイトを差し置いて、佐々の一団は意地悪い態度を崩さない。みんな彼らが怖くて注意できないのだ。斉藤の授業の時にだけ佐々たちはこのような行為に出る。理衣子はあきれ半分、疑問半分で彼らを見とがめた。 

(どんどんエスカレートしてきてるわね) 

 さて、佐々鈴蘭は何が目的なのだろう。 

 もうすぐ一時限目の授業が始まる。朝から一組の教室は不穏なざわめきで満ちていた。 



 「佐々君」 

 いつまでも学校の件でウジウジ悩むなど、こちらのプライドが許さない。理衣子は単刀直入、佐々鈴蘭に勝負を仕掛けることにした。 

 休み時間、彼は仲間のもとから離れ、一人になる時があるのだ。しばらく見張っていてわかったが、どうやら図書室に寄っているらしい。あの見た目で読書が好きとは、人は一見しただけでは判断できないものである。 

 西校舎の一階へ続く渡り廊下に差しかかり、生徒がまばらになった時を見計らって、理衣子は前を歩く背中に一声かけた。 

 ふっと、彼が振り向く。 

 その瞳が意外そうに見開かれる。 

「……綾本?」 

 きょとんとした顔が意外にも可愛らしくて、ほんの少しばかり乙女心が刺激された理衣子は、さっきよりも声の強さを柔らかくした。 

「ほとんど話したことないのに、名前を覚えてもらっていて光栄だわ」 

 コホンと一つ咳払い。佐々鈴蘭は注意深くこちらの動向をうかがっている。 

「私が、ほぼすべての教科で成績優秀であり、授業も真面目に受けて、さらには学級委員長であることもご存じね?」 

「はあ、まあ」 

「直近の定期テストでは学年の三位。文句なしの結果を残したわ」 

「はあ……。おめでとう」 

「それで、手短に伝えます。あなたのせいで授業が成り立たないわ。私の輝かしい学生生活に傷がつくから、迷惑行為はやめてちょうだい」 

 この手の者には下手に出てはいけないのだ。きっちり、はっきりと、嫌なものは嫌だと宣言しなければ反省しない。 

 佐々はぽかんとしている。言われている意味がわからないほど鈍感ではないはずだ。もう一度宣言しようかと、理衣子が口を開きかけた時、思わぬ一言が相手の方から漏れた。 

「それは好きな人のため?」 

(…………はい?) 

 今度は理衣子が唖然とする番だった。この男は何を素っ頓狂なことを口走っているのだ。 

「……何言ってるの。私は大人なんて興味ないわよ」 

「いや、そっちじゃなくて」 

 佐々は理衣子の発言を訂正した。 

「斉藤はどうでもよくて。綾本、お前、好きな人いるだろ」 

 断定したように言われ、少しムッとした。

(あなたが私の何を知ってるのよ)と胸中で相手に毒づく。佐々は様子をうかがうように視線を送っている。何となく気まずい思いがして、理衣子は顔を背けた。 

「……私の話は今は必要ないでしょ。こっちは授業崩壊をやめろと言ってるだけなんだから」 

「何でやめてほしいの?」 

「……あのねえ」 

 あきれてため息をつく。毎日を平穏に過ごしたいのは全人類の学生たちが願う最優先事項ではないか。 

「あなたの行為に、困っている人は多いという意味よ。私は学級委員長だから代表して注意してるだけ。佐々君、世界はあなた中心に動いてなんかいません。今すぐ心を改めて、真面目に授業を受けなさい」 

 佐々はふっと笑うと、「気が強いね」とからかうように理衣子を見た。 

 理衣子も負けじと見つめ返した。昔から、気の強さには自信がある。口喧嘩で男子に負けたことなどなかったし、小学生の頃には泣かせた経験もある。自分に敵などいない。 

 双方の膠着状態がしばし続き、次に佐々が言葉を発した時には、軽く数分が過ぎていた。 

「斉藤はつまらない男だよ。綾本がフォローしてやる価値もない」 

「ずいぶん辛辣なのねえ」 

「そりゃあね。俺はあいつに一矢報いなければいけないからさ」 

 彼がそう言った瞬間、周りに冷たい空気が流れた気がした。声に怒りの色が含まれているのを感じ取った理衣子は、不思議に思って尋ねる。 

「……どうして?」 

「綾本には教えない」 

 意地悪そうに佐々は微笑む。これ以上深入りするのを拒絶する笑みだった。それを察した理衣子は、とりあえず今日のところはあきらめることにした。 

「忠告はしたからね。肝に銘じておいて」 

「善処するよ」 

 理衣子は教室に戻り、佐々はそのまま西校舎の図書室に進んでいった。 


   **  


 佐々鈴蘭の態度の軟化は、観察三日目に訪れた。 

 彼のせいで騒がしい教室が、今日はしんと静まり返っていた。通常の授業風景で間違いないのだが、今まで台風のような騒々しさを起こしていた張本人が、きちんと席について、カードゲームも私語もせず、黙々とシャーペンを走らせているのだ。そのうち空から槍が降ってくるに違いない。それほど目の前の光景は一組のクラスにとって異常だった。 

(ふむ。どういう風の吹き回しかしら) 

 理衣子は前の席で教科書を読みながら、壇上で教鞭を振るっている斉藤をちらっと見上げる。斉藤も何が何だかわからないらしく、どことなくびくつきながら授業をしていた。 

 何事もなく五十分が過ぎ、不気味なほど穏やかに休み時間となった。 

 斉藤が教室を出、続いて理衣子も梗の席に向かう。 

 が、そこでいつも通りの日常はあっけなく崩壊した。 

 梗が神妙な顔をして、こちらを見上げていたのだ。 

 どうしたの、と言う間もなく、理衣子は手を引っぱられて教室を出ていった。

  梗の足取りは早く、後ろを一度も振り返らずにずんずん突き進む。人通りの少ない西校舎に連れて行かれて、理衣子はそっと、ここは佐々が本を読みに通う図書室への通路だと、場違いなことを思った。 

 梗はようやく立ち止まり、理衣子と向かい合った。彼女の表情は変わらず、どこか思いつめたような遠い瞳をしていた。 

「……梗?」 

 不安になり、そっと親友の名を呼ぶ。 

「佐々鈴蘭のことだけど」 

 彼の名前が出されて、ふいに心がドキリと鳴った。何だか、彼女の口から佐々の名前が出ると、落ち着かない気持ちになる。 

 なぜと問われたら、答えられないけれど。 

「佐々君が、どうしたの?」 

「理衣子、あいつと何か話した?」 

「うん、まあ。いろいろと」 

 梗は押し黙った。なぜ彼女が不機嫌なのかわからず、胸に不安が渦巻く。 

 次に親友が放った言葉は、理衣子をひどく混乱させた。 

「佐々鈴蘭は私のライバルだから」 

「……え?」 

 話の先が見えず、理衣子はただぼうっと相手を見つめるしかなかった。 

「あいつ、理衣子のこと、好きだよ。きっと」 

 梗は今までに見たことがないほど真剣な顔をしていた。いっそ怒っているような瞳だった。 

 理衣子はわけがわからず、動揺して一歩後ずさる。すると梗も距離を詰めてくる。 

 何だろう、これは。何が起きている? 

「……馬鹿なこと言わないでよ。佐々君、女子に興味なんてないでしょ」 

「同類はわかるんだよ」 

 梗は理衣子の言葉を聞き流す気などなさそうだ。眉間にしわを寄せ、こちらを見つめている。

 理衣子の頭の中には、数秒前の一言が反芻されていた。 

 ――今、彼女は何と言った? 

 ――同類? 

(梗は、もしかして) 

 心臓がドキドキと早鐘を打ち始める。今まで均等に保たれてきた関係性が音を立て崩れるような、あっけない終わり方を知らされた気がする。 

 この子は、私に何を告げようとしているのだろう。 

 理衣子はさらに数歩後ろへ退いた。 

 梗がふいに切なそうな顔になる。 

「理衣子、あのさ」 

 彼女にしては珍しく、自信のない声だった。 

「私は、あんたの味方だから」 

 息を呑む。 

 目の前の親友の顔は戸惑うくらいに真剣で、怖くて、苦しそうだった。伝えたいことを我慢している時の表情だ。ずっと一緒にいる自分だからこそわかる。梗は今、とてつもなく歯がゆい思いを抱いている。 

「だから、何でも話して。くだらないことでもいいから、何でも。約束ね」 

 それじゃ、と言い置くと、梗は踵を返して理衣子から離れていった。 

 ぽつんと一人、廊下に立っている自分は、何だかおかしかった。 


   **


「綾本」 

 数日後の朝、教室に入ると佐々鈴蘭がいつもの不敵な笑みを携えて近づいてきた。 

「今日もいい子にしてるよ。俺、けっこうがんばってるでしょ?」 

 にこにこしている彼に一瞥をくれ、「ええ、まあね」と返し、理衣子は自分の座席につく。最近、彼はいやに礼儀正しくて品行方正にしていて、若干気味が悪い。 

 観察の日数は一週間を越えた。佐々と斉藤の間にあったバトルなどまるでなかったかのように、日々は平穏に過ぎていった。それというのも佐々が大人し過ぎて、すべてが嵐の前の静けさのような気がするのだ。今度は何を企んでいるのやら。 

 梗のところに相談に行こうとしたが、近頃の彼女はとてもよそよそしく、こちらが話しかけても上の空のように曖昧な返事しか返さない。およそ梗らしくない、集中力の削がれ方だった。 

 彼女が自分に告白しようとしたなんて、ただの幻ではないのか。 

 理衣子はあの日の事件をいまだ信じられない気持ちで受け止めていた。やはりあれは告白ではなく、からかいの一種だったのではと。 

 ここ数日、誰と話しても孤独感が拭えず、理衣子は次第に寂しい気持ちになってきていた。 

  気分が沈んだまま、いつものように昼休みを迎える。 

 理衣子はとぼとぼと職員室へ向かっていた。 

 もう佐々鈴蘭は大人しくなったのだ。今さら自分が見張る必要もないだろう。 

 学年主任の郡上に佐々の観察を辞退する旨を伝えるため、理衣子は職員室の扉をノックした。 

 ちょうどその時、ドアの向こうから教師たちの話し声が聞こえた。 

 盗み聞きの趣味はないのだが、突如出てきた「綾本」の名前に身体がびくりとする。自分のことだろうか。同じ名字の、別の誰かだろうか。 

 ここのドアの壁は見た目よりも薄いようだ。人の話し声がわずかに耳に届く。話題に出されたのが気にかかり、理衣子はその場で動けなくなってしまう。 

「――綾本は、優秀な生徒なのですが」 

 斉藤の声がする。やはり、自分を話に出している。 

 理衣子はドキドキと扉の前で突っ立っていた。 

「正直、学年で三位というのは、それほどすごい数字ではないんですよ」 

(え……) 

 心臓がザクリと何かで傷つけられるような痛み。 

 心拍数が上がり、目の前が滲むような悲しみが襲ってきた。 

「僕としては、――君の方が、将来性がありますね。いや、贔屓するわけではないんですが、頭の良さという点では――」 

 ドアの向こうの斉藤の声は、楽しく弾んでいた。他の教師から生徒の評価を聞かれて、忌避なく答えた純粋な回答という風に聞こえた。斉藤は嘘をついているわけでも、嫌味を言っているつもりでもなく、心から「綾本理衣子の成績はたいしたことない」と伝えているのだ。 

 唐突な喪失感と虚無感が、理衣子の心を覆った。 

 斉藤は、自分を買ってなどいなかったのだ。 

 自分だけ教師ウケを狙って、優等生ぶって、馬鹿みたいだ。 

 大人からすれば、子どもの打算など、たかが知れてる。 

 理衣子は泣きたくなるのをこらえて、足早に職員室から離れていった。 



  どこへ向かうとも知れず、理衣子は校舎をうろうろした。もはや行きたい場所などない。梗とは気まずい状態が続いているし、一人でいると心が張り裂けそうだ。 

 無心になれる居場所を探して、足が赴くままに歩いていると、いつの間にか西校舎の図書室の前まで来ていた。 

「……どうして、図書室なんだろう」 

 理衣子は一人つぶやいた。昔から、傷ついた時には図書室に逃げていた。最近、本からは遠ざかっていたけれど、何かに呼ばれるようにここにたどり着いてしまった。 

 懐かしいな、と感傷に浸り始めた時、ガラス扉の向こうに見知った人影が見えた。 

「……佐々君」 

 なぜか今、彼を見るとひどく安心した。なぜかはわからない。ただ、打ちひしがれている自分の代わりに、佐々が怒ってくれるのではという期待が膨らんだのだ。 

 理衣子は扉を開けた。 

 佐々と目が合うまで、あと数秒後。 



 「お前まで本借りなくてもよかったのに」 

 昼下がりの西校舎の廊下を、理衣子と佐々は並んで歩く。彼の手に収まっている二冊の文庫本を見て、理衣子も衝動的に一冊、単行本を手に取り、気づけば図書委員の座る受付カウンターに並んでいた。 

「ううん、借りたい気分だったの。久しぶりに」 

 実際、本の手触りを確かめると、不思議と心が凪いだ。先ほどの荒れた感情が嘘みたいだ。 

「本、好きだったんだ」 

「これでも文芸部よ」 

「そうか」 

 理衣子は職員室での斉藤の発言を佐々に話した。すると彼は期待以上に怒りの感情を露わにしてくれ、舌打ちを盛大に鳴らしてくれた。 

「あいつ、贔屓にしてる生徒がいて、そいつのすぐ下の順位にお前が入ったから脅威に感じてるんだよ。この前もお前の悪口言ってたからさ」 

「……そうだったんだ」 

 しゅんとした理衣子を見て、佐々はますます腹を立ててくれたらしい。

「あいつはお前の思った通りの大人じゃないさ」と忌々しそうに斉藤を標的にする。 

「もう斉藤に媚び売る必要ないぜ。俺があいつを嫌う理由がわかっただろ」 

「うん……」 

 そう返しつつも、教師からああいう言葉を聞くのは、やはり傷つく。理衣子はこう見えて小心者だ。しっかりしていると言われながら、その内でプレッシャーを感じやすい。 

 誰かが代わりに怒ってくれるのは、何てありがたいことだろう。 

 と、ここまで考えて、理衣子は彼の本心に気づき、はっと振り返った。 

「じゃあ、斉藤先生の授業を邪魔していたのは」 

 ――私のため? 

 言いかけたとたん、身体中にむずがゆい気持ちがほとばしり、自分の顔が真っ赤になっていくのを自覚した。これは、もう、何ていうのか、完敗である。まさかこんなカウンター攻撃を食らうとは思っていなかった。 

 佐々も理衣子に負けず劣らず赤い顔をしている。悔しそうに口を尖らせ「何だよ」と憎まれ口を叩いてくる。 

 理衣子は思わず彼の肩をちょっと小突いた。「うわっ、何!?」とあわてる彼に返事はせず、赤い顔のままそそくさと離れ、無言で廊下を立ち去ろうとした。 

 歩き始めた理衣子の後ろを佐々がついてくる。 「言っとくけど、これは貸しだからな? 次はちゃんと俺のこと助けろよ!?」 「や、約束はしません!」 「何で! 強情なやつだなあ」 

 佐々鈴蘭とは、生意気で腹黒くて小賢しくて、そしてとっても漢気あふれる人間であった。 

 理衣子はまだのぼせているかのような熱をもったまま、そばにいる佐々の存在をぐっと噛みしめていた。 


 ――神崎梗とのトライアングルが始まるまで、あと数日。



   


   


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